
|
■近松門左衛門の墓 …大阪市中央区 △ |
![]() |
■近松門左衛門の墓が、大阪市中央区の谷町筋に面したところにある。 なにか、ハイキングコースの一つになっていて、カメラ片手の人も多く見る。 ▲墓の位置は、中央に位置するオリーブマンションに南側 ![]() ▲すこし、辞典から近松の業績を拾ってみよう。 ■ちかまつ‐もんざえもん【近松門左衛門】(‥モンザヱモン) (1653―1724)江戸前期の浄瑠璃(じょうるり)・歌舞伎(かぶき)作者。 本名杉森信盛(のぶもり)。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)、不移(ふい)山人。 承応(じょうおう)2年越前(えちぜん)吉江藩士杉森信義(のぶよし)の二男として福井に生まれたが、父が浪人となったため、近松15、16歳のころ家族とともに京都に移り、公家(くげ)の一条恵観(えかん)家(正親町(おおぎまち)家、阿野(あの)家とも)に仕えた。20歳のとき主人の死にあったのを機に主家を辞した。 その後作者になるまでの消息は明らかでないが、一時近江(おうみ)国(滋賀県)の三井寺高観音(みいでらたかかんのん)の近松(ごんしょう)寺に遊学したことがあり、筆名の「近松門左衛門」はその縁でつけたという説もあるが、真偽は不明である。 その時期に和漢の古典を学び、仏教に関する知識も習得したものと思われる。そして1677年(延宝5)25歳ごろまでには、京都の宇治加賀掾(うじかがのじょう)のもとで浄瑠璃作者となったらしい。 武士の出の近松が、賤視(せんし)されていた芸能の世界へ身を投じたのは、当時としては思いきった転身であったが、結果的には幸いした。 以来72歳で没するまでの四十数年間に、歌舞伎脚本30余編、時代浄瑠璃80余編、世話浄瑠璃24編を書き、日本最大の劇詩人とたたえられる輝かしい業績を残した。 ▲お墓のことも、辞典にのっていた。 1724年(享保9)11月22日72歳で没した。 尼崎(あまがさき)市の広済寺(こうさいじ)に墓があり、また近松記念館が設けられている。 なお、大阪市中央区法妙寺(妻の実家の菩提(ぼだい)寺)跡にも墓だけ残っている。 ⇒本当のお墓は、尼崎にあるそうだ。奥さんとの縁で菩提寺に墓が残っているということか。 ![]() ■上掲の画像は、谷町筋から見た画像。 ■近松の業績を辞典では簡略に語っているのでそれを書き写す。以下。 近松は古浄瑠璃を当世風に改めて浄瑠璃を大成させたが、時代浄瑠璃では本来の夢幻性のなかに浪漫(ろうまん)的な要素と現実的な要素を巧みに調和させ、世話浄瑠璃では義理と人情との相克のうちに生きる庶民の姿を、生き生きとしかも愛情をもって描き、人々の心を動かした。 それらの作の多くは不変の人間性を深く追求しているため、現代的生命をもち続けているものが少なくない。 またその構想、趣向、文章が後世の戯曲に大きい影響を与えていることも、彼の偉大さを物語るものであろう。 ただ『冥途の飛脚』『心中天網島』など上演度の高い作品は、原作のままの上演は初演だけで、その後は後人の入れ事の多い改作物が舞台に上(あが)っていた。 これは近松以後の時代には演劇性に富んだはでな作が多くなり、それに対応して改作が行われたものと思われる。 第二次世界大戦後は近松再検討の声がおこって原作による上演が増えてきている。 |
![]() |